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掲載開始日:2012年1月31日
最終更新日:2023年7月25日
現在、北区内を流れる河川は、荒川・隅田川・新河岸川・石神井川の4つがあります。この他にも、昔は小さな川や用水路が区内に流れていましたが、現在は埋め立てられたり、暗渠になっています。
江戸時代以前の荒川は利根川(現在の古利根川)に流入していましたが、徳川家康による治水工事によって、荒川の水を入間川に流すように改修され、現在の隅田川に流入して東京湾に注ぐようになりました。
荒川は江戸一番の大河だったので、早くから舟運(しゅううん)が開け、河岸(かし)とよばれる船着場がたくさん造られました。それらの河岸からは、周辺地域から集められた農作物や物資が江戸に向けて積み出され、大都市・江戸を支える重要な役割を果たしていました。
明治43年8月の豪雨による荒川の氾濫(はんらん)は、岩淵・志村・王子・日暮里から千住・下谷・浅草・本所深川・向島の東から亀戸まで、東京下町のほとんどを泥の海にしました。この大洪水をきっかけに着手されたのが荒川放水路です。
荒川放水路は、岩淵水門(いわぶちすいもん)により本流を仕切り、中川(なかがわ)の河口方面に向けて、延長22キロメートル、幅500メートルもの放水路を建設するという大工事で、竣工まで20年の歳月を要し、昭和5年に完成し、荒川放水路と命名されました。
こうして、洪水時には岩淵水門を閉めて本流(隅田川)の増水を抑え、幅の広い放水路でいっきに海へ洪水を流下させることができ、今日も東京の下町を水害から守っています。
この荒川放水路を現在では「荒川」と呼び、北区内では主に北部の浮間・岩淵町・志茂地先を流れ、埼玉県との都県境になっています。広大な河川敷には緑地や野球場などが整備され、憩いの水辺となっています。
隅田川は岩淵水門から東京湾までの全長23.5キロメートルの川で、かつては荒川の本流でした。古く平安時代の「伊勢物語」にも詠まれており、東京の母なる川として、はるか昔から人々の文化や生活に深く結びついてきました。
高度成長期を迎え、隅田川は水質汚濁やコンクリートの直立堤防(いわゆるカミソリ堤防)の整備により、私たちから遠い存在となってしまいました。しかしながら近年では、うるおいのある水辺環境の向上を図るための緩傾斜堤防(かんけいしゃていぼう;斜面の勾配がゆるい堤防)の整備や治水・耐震性について、より安全性が向上するスーパー堤防(街と堤防が一体になった堤防)の整備が進められています。
隅田川は、北区内では主に北東部の志茂・神谷・豊島・堀船地先を流れ、足立区との区境になっています。
昔の新河岸川は川越郊外の伊佐沼を水源とし、荒川とほぼ並行に流れて新倉(埼玉県和光市)で荒川と合流していたため、北区内を流れる川ではありませんでした。
明治末から大正初めにかけて、荒川の大改修が行われると、新河岸川の改修の声もあがりましたが、沿岸の問屋衆の「改修すると舟運が衰退する」という理由による反対で、改修工事は見送られました。
新河岸川は「九十九まがり」と言われるほど屈曲部が多く、洪水の原因にもなっていたため、結局、大正9年から昭和6年にかけて改修工事が行われました。この工事により、新倉で荒川に合流していた流路を切り離し、板橋区の北辺を通り、北区に入って浮間・赤羽北・赤羽地内を流れ、岩淵水門付近で隅田川に合流する新水路が開削されました。
この新水路が現在の新河岸川となっており、人工の川であるため「新河岸運河」とも呼ばれていました。
石神井川の水源は小平市のはずれの湧水ですが、現在は宅地に埋まりはっきりしなくなっています。この水源の小さな流れにところどころの湧水が集まって小川となり、練馬区の三宝寺池(さんぽうじいけ)などの湧水が加わり、板橋区から北区内に流れ込み、滝野川・王子本町・王子・豊島・堀船地先を貫流し、隅田川に合流します。この三宝寺池から昔、石剣が出たので石神(しゃくじ)の祠を祭り、池からの流れを石神井と呼んだのが石神井川の名前の由来とされています。
武蔵野台地をえぐる流れは、石神井川の渓谷と言われる渓流となり、この谷の美しさは絵にも描かれ、詩歌にもうたわれてきました。また、王子神社(王子本町1-1)の付近では、音無川(おとなしがわ)とも呼ばれてきました。
石神井川は遠く昔からたくさんの人々が、この水を求めて生活を営み、この流れに沿って繁栄してきました。徳川幕府の反射炉を築く計画では、準備のために石神井川を拡張する工事などが行われ、荒川(現在の隅田川)からの舟運の便に活用され、明治に入ると工業用水としての使命を持つようになり、現在の王子製紙や国立印刷局王子工場などが建設されました。
工場建設は王子周辺の人口増加につながり、石神井川は北区の発展のため貴重な流れでしたが、流域の市街化に伴い、コンクリート護岸で囲われた典型的な都市型河川となり、昔の情緒・面影は見られなくなってしまいました。現在は、王子駅より上流の両岸にサクラが植えられ、開花期には多くの人が花見に訪れています。
なお、王子駅から隅田川合流地点までの下流部において、区で水質改善に取り組んでいます。詳しくはこちらをご覧ください。
今は暗渠(あんきょ)となっている谷田川は、現在の東京都中央卸売市場豊島市場より染井墓地内を通り、豊島区駒込と北区西ヶ原の区境を流れていました。本郷通りの霜降橋(しもふりばし)、田端2丁目の谷田橋(やたばし)を越え、台東区谷中と文京区千駄木の間を流れて、上野の不忍池(しのばずのいけ)へと注いでいました。
北区内では昭和7年から始まった工事によって暗渠となり、その上は田端銀座・霜降銀座・染井銀座等の商店街が形成され、「谷田川通り」の名前も残っています。
川が暗渠になった際、谷田橋本体が田端八幡神社参道第一鳥居前(北区田端2-7)に移設されており、当時を偲ぶことができます。
稲付川は北耕地川(きたこうちがわ)とも呼ばれた水路で、石神井川の水を分けた潅漑(かんがい)用水でした。石神井川中流にある板橋の根村(現在の板橋区双葉町)の堰で分水されたので根村用水(ねむらようすい)または中用水(なかようすい)とも呼ばれていました。江戸中期・4代将軍家綱の時代に開削されたようですが詳しいことはわかっていません。
北区内の流路はほとんどが暗渠となり、下水溝になってしまいましたが、稲荷台(板橋区)の裾をめぐり、姥ヶ橋(うばがばし;環七通りの交差点名として残っています)をくぐって、現在の梅木小・清水小の脇を流れ、岩槻街道を過ぎたところで細分されて各村に導かれていました。その末はそれぞれ荒川(隅田川)に放流されていましたが、現在では北本通り(国道122号)の東側神谷3丁目地内に残っており、隅田川に接続しています。
川幅は2メートル前後の狭いものでしたが、流域の農家にとっては死活に関わる用水だったため、開設当時から利害の反する上流と下流の農民の間で争いが絶えませんでした。
明治5年の水争いでは、板橋の農民が総出で竹槍を持って村はずれの智清寺に15日間もたてこもって、姥ヶ橋に集まった上十条、稲付、赤羽、岩淵本宿、下、神谷の6ヶ村の農民と対峙しました。今にも血の雨を降らさんばかりでありましたが、東京府が仲に入ってようやく治まりました。また、明治9年には、根村堰の改修にからんで水争いが起き、板橋村など6ヶ村と王子村など22ヶ村とが対立して大騒動になりましたが、このときも東京府が仲裁に入って治めました。
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