ホーム > 文化・観光・スポーツ > 北区飛鳥山博物館 > 北区の歴史と文化財 > 歴史文化財リスト > 歴史文化財リスト田端地区 > 文化財説明板室生犀星の「庭石」と「苔」
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最終更新日:2015年4月23日
この『庭石』と『苔』は、ここから北西へ約200m先にある滝野川第一小学校の近くに住んでいた室生犀星(旧田端523番地に居住)の庭にあったものです。犀星の庭造りは、有名で、故郷金沢や軽井沢にも庭を造りました。また、「庭をつくる人」など、庭に関する随筆や評論も数多く発表しています。詩集「高麗の花」に「石一つ」と題して、
石を眺め悲しいといふものあらんや。
姿をかしく
されど皺深く蒼みて
雨にぬれるとき悲しといふものあらんや。
中略
こころあらば
誰かわが家に来りて
水なと打ちそそぎたまえ。
語ることなき石あをみて
しだいにおのが好む心をば得ん。
……と庭の石を詩っています。
犀星は、大正5年から田端に10年近く住み、三児を得ましたが、長男豹太郎を幼くして亡くしました。その深い悲しみを「童子の庭]に
…………亡児と[庭」との関係の深さは「庭」へ抱いて立った亡児の俤は何時の間にか竹の中や枇杷の下かげ、或は離亭(はなれ)の竹縁のあたりにも絶えず目に映り、自分を呼び、自分に笑いかけ、自分に邪気なく話しかけ、最後に自分の心を掻きむしる悲哀を与えるものだった。
……と書いています。
当時、犀星の隣家には、芥川龍之介の恩師である広瀬雄(府立第三中学校校長)が住んでいました。昭和3年、犀星はこの悲しい想いから逃れるように、田端を去り大森馬込ヘ引越しますが、引越しを決意した犀屋は、広瀬に庭石の引き取りをもちかけ、庭を造るなら「ついでに苔も上げましょう。」ということになったようです。ちなみに、犀星は、この「苔」を叡山苔と呼んでいました。
田端は、大正から昭和初期にかけて日本のモンマルトルともいわれ、幾多の文士・芸術家が住んでいた街でしたが、昭和20年惜しくも戦災により、すべて灰塵に帰し、いまは、その当時を偲ぶよすがとてありません。しかし、この「庭石」と「苔」は犀星の深い想いを秘めて奇跡的に広瀬宅に生き残りました。
この「庭石」と「苔」は、広瀬氏のご長男、淳雄氏のご好意により本公園設置を記念して寄贈されたものです。
童橋公園内には、室生犀星の「庭石」と「苔」の文化財説明板横に田端文士村総合案内(地図)があり、文士・芸術家が住んでいた場所やゆかりのある場所を知ることができます。
田端5-1-5 童橋公園内