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最終更新日:2015年4月23日
善徳寺の墓域内には、江戸時代、大伝馬町の御伝馬役(ごてんまやく)名主として活躍した馬込家の墓があります。
御伝馬役とは、江戸伝馬役と呼ばれるもので、大小の伝馬町と南伝馬町・四谷伝馬町が五街道と江戸府内近郊へ人馬を継ぎ立てる夫役をいいます。町名主の馬込家は代々、この運営にあたりました。また、他の町で同様の役職にある名主家とともに、名字・帯刀を許可され、町名主の筆頭として年頭に将軍の御目見(おめみえ)が許されていました。
馬込家は、遠江国敷智(ふち)郡馬込村(浜松市)の出身といわれ、本名を平八、当主になると勘解由(かげゆ)と称していました。馬込という家名は元和元年(1615)5月、大坂落城の後、浜松宿の馬込橋まで徳川家康を迎えた時、500人の人足を引き連れて迎えたことを喜んだ家康から与えられたと伝えています。
最初、菩提寺は増上寺でしたが、その後、増上寺開山聖聡の弟子の楽誉聡林が開基した善徳寺の檀家となりました。墓地は、善徳寺が数度の火災を受けて、日本橋馬喰町・浅草松葉町へと移転したのに伴って移されましたが、関東大震災によって罹災したため、昭和2年(1927)4月に赤羽へ移転した善徳寺とともに現在地へと移りました。
赤羽西6-15-21 善徳寺