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最終更新日:2015年4月23日
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江戸時代、ここは稲付村と呼ばれて日光御成道(*1)の沿道にあたり、一里塚の築かれていた場所です。
慶長9年(1604)2月、徳川家康は江戸日本橋を起点として全国の主要街道の一里毎に、榎を植えた塚を築かせ、街道の道程の目安としました。稲付一里塚も、こうした政策に沿って築かれた交通施設です。ここまでの道筋は本郷追分の一里塚で中山道と分岐し、西ケ原一里塚を経て稲付村の一里塚にいたります。日本橋を起点とすると本郷追分が一里目、西ケ原が二里目、稲付の塚が三里目(約11.8キロメートル)にあたり、この塚を過ぎると御成道の最初の宿場である岩淵宿に向かいます。稲付村内の御成道は総延長約六丁半(約709.1メートル)で、幅は二間半(約4.5メートル)から四間(7.2メートル)位と記録されています。また、この一里塚のあった付近の街道上には、壱里塚という字(あざ)から道女喜に渡る幅二間半・長さ四尺(約1.2メートル)の石橋があり、高札(こうさつ)も建てられていました。日光御成道は、江戸幕府の将軍が、家康をまつる日光東照宮に参詣し、年忌法要を営むために通る専用の道だったので、このように称されました。また、同時に江戸北郊の城下町である岩槻と江戸とを結ぶ街道でもあったので岩槻街道とも呼ばれていました。一里塚は、旅人にとっては歩いた距離や乗物賃の支払いの目安となり、陽射の強い日には木蔭の休憩所としての役割もはたしました。
赤羽西2-8-19
文化財説明板