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最終更新日:2015年4月23日
ここに、浮間橋の架橋に至る由来を示す大小二つの碑が建っています。どちらも由来を後世の人々に伝えようとしてたてられました。
荒川は江戸時代から洪水の多い、荒れ狂う川として知られており、明治43年(1910)8月、関東平野全域と東京の下町をほとんど水浸しとする大水害が起こりました。翌年、明治政府は洪水時の四分の三の水量を流すことのできる新川を作ることを決定し、荒川放水路が設置されることになりました。しかし、この河川改修の結果、浮間は荒川と新河岸川とに挟まれることになり、交通手段を渡船(わたしぶね)に依存せざるを得なくなったのです。そこで、浮間の農家約60軒が橋の建設を要望し、合計六千円を醵金(きょきん)して、赤羽台4丁目の国立王子病院跡に駐屯していた近衛師団の工兵隊に架橋を依頼しました。そして昭和3年(1928)5月、幅二間、長さ六十五間半の木橋が架けられたと大きな碑には刻まれています。
その後、浮間橋は昭和9年(1934)秋、鋼板鋼桁製の橋に、昭和15年(1940)3月、鉄製の橋へと架け替えられたのですが、JR(旧国鉄)の東北・上越新幹線・埼京線の建設計画に伴い、再び架け替えられることになりました。そこで大きな碑は、最初の木製の浮間橋を建設した人々の子孫が浮間橋記念碑保存会を設立して、話し合った結果、昭和60年(1985)9月、新しくなった浮間橋の脇に移設されたのです。小さな碑はこの移転の経緯を残すためにたてられました。
浮間1-1
文化財説明板