ホーム > 文化・観光・スポーツ > 北区飛鳥山博物館 > 北区の歴史と文化財 > 歴史文化財リスト > 歴史文化財リスト赤羽北・桐ケ丘地区 > 文化財説明板郷蔵跡と稲荷社
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最終更新日:2015年4月23日
江戸時代、ここには袋村の郷蔵(ごうぐら)がありました。郷蔵は年貢米の保管や凶作に備えて穀物を保管しておくための倉庫です。
嘉永3年(1850)8月の村絵図によれば、敷地内には蔵と建物の背後に杉の立木が描かれています。この絵図に関する古文書によれば、これは火事を防ぐための火除(ひよけ)の立木であると書かれています。また、このときの村明細帳によれば、郷蔵は「籾稗貯穀囲蔵(もみひえちょこくかこいぐら)」と呼ばれ、籾八斗三升一合と稗三十六石八斗五升が貯えられ、このほかに稗四十四石の積立計画が領主の命によって実施されていました。これによって、ここは年貢米の保管というよりは、どちらかというと災害や飢饉の際に、村の人々が飢餓から自分達を守る備荒貯穀(びこうちょこく)を目的とした郷蔵だったことがわかります。
現在、ここには大正7年(1918)3月に建立された石造の鳥居と一対の狐像があり、「ゴクライナリ」とよばれる稲荷社の社地となっています。「ゴクライナリ」という名称は、郷蔵の「ゴウ」の「ウ」が詰まって発音されたり、あるいは、「御蔵」ともいう郷蔵の「御」を「オ」といわずに「ゴ」と言った結果とも考えられます。稲荷社は「守倉」稲荷と称されていた時期もあり、また、現在は、「穀蔵」稲荷と称されていますが、これらも「ゴクラ」と読まれており、かつては、ここが郷蔵であったことを示唆しています。
赤羽北1-6 稲荷社地内