ホーム > 文化・観光・スポーツ > 北区飛鳥山博物館 > 北区の歴史と文化財 > 歴史文化財リスト > 歴史文化財リスト西ケ原・中里地区 > 文化財説明板伊佐家の墓
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最終更新日:2015年4月23日
円勝寺の墓域には石州流茶道の流れをくむ伊佐家代々の墓があり、墓石に文化5年(1808)11月銘の初代と二代の和歌及び・俳句が刻まれています。
出る日も入る日も遠き霊鷲山
またゝくひまに入相のかね
初代 半寸庵知當
後世のたひおもむきたまふ秋の夜の
わかれそむかし今のおもひて
二世 半寸庵知義
極楽や 冬こもりする 阿弥陀堂
二世 半寸庵吟洌
伊佐家は江戸時代の茶人の家柄で、代々幸琢(こうたく)を名乗り、数寄屋頭を勤めました。初代(1684~1754)は半々庵と号し、怡渓宗悦(いけいそうえつ)に石州流茶道を学んで石州流伊佐派の開祖となりました。二代(1706~95)は半提庵、三代(?~1808)は半寸庵と号しました。
数寄屋頭とは茶道頭とも称した江戸幕府の職制で、若年寄の支配下にありました。職務は数寄屋坊主を指揮して、御三家や大名などの茶事を取り扱うことです。伊佐家は数寄屋頭として幕府の茶道を支配していたので、武家茶道界では大きな勢力を持っていました。特に三代の門下からは、茶人としても著名な松江藩主の松平不昧(治郷・1751~1818)などが輩出しました。
中里3-1-1 円勝寺境内
文化財説明板