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最終更新日:2015年4月23日
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平塚神社付近は、平安時代に豊島郡を治める郡衙のあった場所だと推定されていますが平塚明神并別当城官寺縁起絵巻(北区指定有形文化財)の伝承によれば、この時代の末期には、秩父平氏庶流(しょりゅう)の豊島太郎近義(ちかよし)という人物が平塚城という城館(じょうかん)をつくります。
平塚城は源義家(みなもとのよしいえ)が後三年の役(えき)で奥州に遠征した帰路の逗留地(とうりゅうち)で、義家は近義の心からの饗応(きょうおう)に深く感謝し、使っていた鎧(よろい)と守り本尊の十一面観音を下賜(かし)しました。近義は義家が没した後、城の鎮護のために拝領した鎧を域内に埋め、この上に平たい塚を築き、義家兄弟の三人の木像を作り、そこに社(やしろ)を建てて安置したと伝えられます。これが本殿裏側の甲冑(かっちゅう)塚とも鎧塚とも呼ばれる塚で、平塚の地名の起こりともいわれます。鎌倉・室町時代の平塚城は、この地域の領主であった豊島家代々の居城(きょじょう)となりましたが、文明10年(1478)1月、泰経の時代に太田道灌(*1)によって落城してしまいます。
江戸時代、上中里村出身の針医(しんい)で当道座検校(とうどうざけんぎょう)でもあった山川城官貞久(やまかわじょうかんさだひさ)は、三代将軍家光の病の治癒を平塚明神に祈願し、家光は程なく快復します。感謝した貞久は、みずからの資金で平塚明神の社殿と別当の城官寺を再興し、買った田地を城官寺に寄進します。貞久の忠誠心を暫くして知った家光は感激し、250石の知行地を与え、この内の50石を朱印地として平塚明神に寄進させました。
平塚神社は、北区指定有形文化財の「紙本著色平塚明神并別当城官寺縁起絵巻」(しほんちゃくしょくひらつかみょうじんならびにべっとうじょうかんじえんぎえまき)、古文書「平塚神社文書」(ひらつかじんじゃもんじょ)を所蔵しています(非公開)。立派なイチョウとケヤキの並木が参道にあり、節分には盛大な豆まきが行われます。
上中里1-47-1 平塚神社